2.基調スピーチ
『米山梅吉翁の生涯と奨学会の設立までの経緯』
リーダー 奥津 光弘 (秦野中)
このテーマをいただいた時、15分でまとめることは、どの程度の突っ込み方をしたらよいか難しいと思いました。
米山梅吉さんの全生涯を書いた、佐々木邦氏の『創意と奉仕の一生』という昭和61年に発行された『米山梅吉伝』という部厚い本を広げてみました。
米山先生に関する多くの資料は、ほとんどが東京空襲で失われたといわれておりますが、この本には当時の梅吉さんと関係の深かった財界人や政界人の話がいろいろ書いてありまして、どこをどう伝えたらいいか困りました。
また、『ロータリー記念奨学会史』や『米山記念館創立35周年記念誌』で『超我の人・米山梅吉の跫音』と等々の資料はあるのですが、まとめるのが難しくて困りました。
皆さん、米山奨学会で米山さんを知っていても米山さんがどんな人だったか、ロータリー財団の創立者、三井銀行の頭取、三井信託銀行の創立者で社長という事は、ご存知と思われますが、米山さんの人となりを、お話ししたいと思います。
米山梅吉さんは、明治元年2月4日に東京芝田村町で、士族・和田竹造の三男として生まれております。
お母さんは、伊豆三島神社の娘さんです。
田村町には当時、田村屋敷というのがあって、その跡に今でも「浅野長矩切腹の地」という碑が立っています。
この周辺は、江戸城に最も近いという事でしたので、旧幕府時代には侍が多く住んでいました。
すぐ近くには、やはり赤穂義士に関係のある「仙台屋敷」というのもありました。
乃木大将も、この界隅で生まれたといわれています。
お父さんの和田竹造は、大和高取の藩士でしたが、何石の禄を食んでいたかは分かりません。
侍は百石侍といいまして、百からの物の数に入るといわれていました。
維新後は、足軽も士族になりましたが、足軽は国許の仲間屋敷に住んでいるので、江戸に出て田村町に住んでいたという事は、相当の侍だったと思われるわけです。
お母さんも由緒ある三島神社神官の娘だったので、米山さんはその頃としては、最も教養のある家庭に生まれたことになります。
お父さんが5歳の時亡くなったため、米山さんはお母さんの実家・三島に帰り、映雪舎という富士山の真正面に見える小学校に通っていました。
神童の誉が高かったといわれる彼は、長泉村の米山家という家に懇望されて12歳の時に養子となったのです。
米山家は駿河の今川家の旗本でしたが、帰農した地主さん・村長さんもやった家でした。
(米山家の一人娘の春子さんが後の米山夫人)
その後、沼津中学に入り、頭が良く明るく同級生にも愛される少年だったといいます。
何事にも積極的で、特に全国で売られていた『頴才新誌(さいさいしんし)』という雑誌に投稿を始め、夏目漱石と米山さんの文が1番多く載せられたとのことです。
「このままで行くと自分は旧家の地主として一生を終えるに違いない」と疑問を持ち始め、悩み出したのです。
梅吉少年は、文章に自信があり、政治に興味を持ち、演説も上手でしたので、新聞記者に憧れていたのです。
そして遂に、明治16年12月、黙って家を出て1人で箱根の山を越え、横浜まで歩き、そこから新橋まで鉄道に乗り、3日がかりで東京に着いたのです。
東京に出て、銀座の江南学校に入学しました。
しかし、もっと深い勉学を目指して、漢学者の土居光章先生の書生になります。
土肥先生は頼山陽の孫弟子で、沼津中学校時代に政治の演説を聞いた先生でした。
しかし梅吉青年は、漢学よりもっと新しい学問をしたいと思い続け、1年足らずの間でしたが、井上馨の娘婿・藤田四郎氏と親しくなり、これが20年後の三井銀行入社のきっかけとなるわけです。
アメリカに行けばさらに新しい学問が出来ると、明治19年、青山の東京英和学校(現在の青山学院)に入学します。
ここで米山梅吉さんは、本多庸一先生の教えを受け、アメリカ行きを決意するのです。
そして米山家との理解も得て、親兄弟にあたたかく見送られ、アメリカに出発するのです。
明治21年、メソジストの福恩会を頼ってアメリカに渡り、ベルモント・アカデミーという高校に入り、オハイオ州ウェスレアン大学、ニューヨーク州のシラキュース大学で法学を勉強し、8年間の苦学の末、帰国します。
新聞記者では当時収入が少ない為あきらめ、当時英語のできる人を募集していた日本鉄道会社に入社しました。
この間も勝海舟のところによく出入りし、そこで榎本武揚や福沢諭吉とも交流が出来たのです。
鉄道マンになったものの、安月給で生活は火の車だったといわれています。
運良く、井上馨の推薦で三井銀行に入社。
明治30年10月、30歳で銀行マンになりました。
しかしソロバンも簿記も全く分からず、必死で金融を勉強したといわれています。
生活も安定し、2年目には上役に認められ、2年間かけて欧米旅行の視察に行き、この報告は三井銀行ばかりでなく、日本の銀行の指針として今でも重用されているといわれています。
その時、勝海舟の推薦で大臣秘書官にと誘いもあり、本人も大いに魅力を感じたが断ったそうです。
三井銀行の常務取締役となり、第2次・桂太郎内閣の時、大隈重信・渋沢栄一と会合を持ち、いつの間に「三井の米山」ではなく、日本経済界の長者の1人にみなされるようになりました。
大正3年、47歳の時、『新隠居論』という論文を発表、「若い人に仕事を譲って公共の事業について欲しい」という考えを呼び掛けております。
昭和6年10月から4ヶ月、日本帝国政府特派経済委員としてアメリカに行き、帰国後、大正天皇より金盃を授与させています。
大正9年の53歳の時、日本ロータリークラブを作り会長となり、我が国にロータリークラブが生まれたことは、皆様ご存知だと思います。
大正10年、ご長男が20歳で、昭和元年に次男・駿二氏が21歳で亡くなり、その失望は大変だったといわれています。
三男の桂三氏は慶応大学の教授をなされ、今でもご健在です。
大正13年には、日本で初めての信託会社、三井信託株式会社(三井信託銀行)を創立し、取締役社長を務めています。
昭和9年、三井財閥の寄付で、社会事業や文化事業に役立つための「三井報恩会」を作り、理事長となったのです。
当時のお金で3,000万円と言われ、今の100億円以上の価値といわれています。
昭和13年には、貴族院議員に勅選されています。
米山さんは、ダンディーで黒っぽい背広に黒い靴という服装が多く、背広はよくブラッシングがかけられ、ズボンの折り目も正しく、行動も実に紳士であったと言われています。
そして、時間にも非常に厳しい方でした。
また青山学院の院長就任を頼まれた時は、他の仕事もあって「その任ではない」と断っています。
幼児小学校教育にも熱心で、青山学院初等部として寄付した緑岡小学校も私財で創立し、『人々にしてほしいとあなたが望むことを人々にもその通りにせよ。』という聖書の言葉を、いつも話されていたと伝えられます。
三井報恩会では、全国の癩病患者一人一人にお土産を持って訪問、ベッドも3,000台寄付、癌治療に必要なラジウムをベルギーから当時100万円を出して研究の為に輸入したり、
国民病といわれた結核のためにも療養所や研究所を設立、精神病院の設立、また当時不況で貧しかった東北の農村に多額のお金を出し、息を吹き返した村も多く、ある村には米山先生の書かれた字の記念碑も立っています。
また、羊毛の資源を増やすため、ニュージーランドから5,000頭以上の羊を輸入して農家に飼わせたりしています。
また、多くの学問の研究・実験の為、お金を出したり協力したりと、数えきれないボランティアを行っておりました。
日本全体を見つめ、世の中の流れを考えての報恩会の仕事は、ロータリー精神を持った米山梅吉翁のリードによるもとだと思います。
昭和15年、日支事変が起き、ロータリーができて20年で解散せざるを得なくなりましたが、「水曜クラブ」と名を変えて、ロータリーの精神は戦時中も続けられました。
そして戦後の昭和24年の日本ロータリー国際復帰の報は、米山先生は天国で知らされたわけです。
生前多くの、特にアジアの留学生や国内の苦学生に、無名で多額の援助を惜しまなかった先生の遺徳を偲んで、今、RIでも注目している「ロータリー米山記念奨学会」が生まれ、現在に至っております。
ご清聴ありがとうございました。
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